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「知覧へ行って」
池田 清郎
先日、事務局のメンバーとともに鹿児島県知覧を訪ねました。初めの予定は、沖縄にと思っていましたが、飛行機の便やホテルの都合がつかず、急遽「知覧」に決めました。と言っても「知覧」は、絶対に行きたいと考えていたもので、深い思いをもって訪ねました。

 「知覧特攻平和会館」は、陸軍知覧基地の跡に建てられている。ここは、陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、多くの少年兵の飛行訓練所であったが、米軍がいよいよ沖縄から本土の迫ろうとした時、「特攻基地」となり、多くの若者たちがここから太平洋へと飛び立っていきました。平和会館には、航空機(海から引き上げられたものも含め)、特攻隊員として若い命を終えた1035名の遺影、遺書、遺品、関係フィルム等が展示され、敷地内の特攻平和観音堂には1026柱の特攻隊員の霊が祀られているそうで、また、特攻隊員が寝起きした三角宿舎も残されていました。

 また、帰りに「富屋食堂(ホタル館)」を訪れた。若い特攻隊員の安らぎの場所で、店主の鳥浜トメさんは、自分の着物や持ち物を処分して、そうした特攻隊員にふるまったそうで、とくに「アリラン」や「ほたる」の話は有名であります。

 感想や思いについては、参加したメンバーの感想文をアップしますので、そちらを見ていただき、私の感想もそちらでご覧下さい。

 沖縄―知覧―無言館―丸木美術館、そして遊就館を是非訪ねていただきたいと思うし、私自身の近いうちに家族と行きたいと考えています。

いよいよ本格的に今年の夏を迎えようとしています。今から60余年前、その時代に生き、亡くなっていった多くの人々に思いをはせ、平和のこと、戦争のことを考える夏にしたいと考えています。

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「解放同盟和歌山県連書記局研修で思うこと」
藤本哲史
久しぶりの「知覧」訪問。3回目かな?
訪問するたびに感じ方が違うのは、歳のせいかも?
青年期に訪問したときは、戦争への憤りと失われた青年の命の尊さ、青年たちの家族や恋人への思いがひしひしと感じられた。
今回の訪問は新しく造られた「特攻平和観音像」やきれいに整備された「特攻平和会館」が目の当たりに飛び込んできた。
三度繰り返さない戦争を誓いながら、訪れるたびに感じるのは、「特攻」と「平和」の文字である。
人の命を犠牲に「自爆」と言う手段で相手を攻撃する戦法は、「人間魚雷回天」にも見られた。
この「回天」には、被差別部落の青年が搭乗させられたとの記憶もある。
戦争は、いかなる理由があろうとも絶対に起こしてはならない行為であり、1948年に国連は、「戦争は最大の人権侵害である」との共通認識のもと世界人権宣言を発布しました。
しかし、今日の世界情勢を見るとき、アメリカを中心とする国々(日本も含む)が「反テロ」を口実に戦闘行為を繰り返しています。
そして、イラクやアフガニスタンでは「自爆」を反撃の手段として多くの市民が犠牲者になっている現実があります。
「なんで?」と思いながらも何とかしなくてはと、私にできることはしていこうと考えています。
1970年代は、戦争に反対の直接行動として「ベトナム戦争反対」の抗議行動が行なわれたり、「原子力空母」の寄港に反対デモをしたりで、見える行動があった。
今は?「反戦・平和」をスローガンにする団体が多いが具体的行動が見えないように感じられます。
(私も)今回の「知覧」の訪問で反戦の意思表示を具体的行動で示さなければと、思いましたね!!

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「研修旅行に参加して」 
宮本 修作
久しぶりに県連書記局で研修旅行に行ってきました。
たぶん、4〜5年ぶりだろうと思いますが、前回は韓国ソウル市内の見学だったように思います。
 今回は鹿児島の知覧飛行場で特攻隊の前線基地の資料館を初めて見学してきた。
私も、知覧といえば特攻隊・大日本帝国主義・軍国主義の象徴のように思っていました。  しかし、以前から知覧へ行った人の話を聞いていると、「そんなことは無いよ。行けばわかる。
いろんな人が数多く見学しているが、みんなそれぞれ思いは別だと思うが、資料館から出てきた時は同じ気持ちになっているんじゃないかな」と言っていたように聞いていました。
 ボクもその一人で、約1時間30分ぐらい見学して、その圧倒的なインパクトで知覧のイメージが変わりました。
この感覚は初めて広島の原爆資料館を見たときと同じで、なんか暗いけど、心に刻んでおくべき大切なものとして、自分自身がその光景を少しでも語り継いで行けたらいいなーって思いました。
 特に、20歳前後の若い世代が数多く遺影として、1000人を超す写真がありましたが、北海道から沖縄まで全国各地から召集され、その当時の世界情勢もわかるように、カラフトや台湾・韓国・朝鮮の出身者も数多くいた。
 ただ、彼らは特攻隊で大日本帝国や天皇のために出撃したんじゃない。
それぞれの遺書を見てもはっきりわかるように、家族のため特にお母さん・お父さんに対するものが圧倒的に多く、また、写真の中に出撃する寸前に子犬を抱いて笑っている写真が印象に残っています。
 みんな微笑んで普通に遊んでいるようにしているのを見ると、ボクも彼らと同じ世代の青年の親として、戦争とは何か、国家とは何か、平和とは何かを今一度考えるべきではないかと思います。
 さらに知覧から帰ってきて数日後、ニュース放送で特攻隊で出撃した韓国青年の記念碑が韓国国内で作られるのを、韓国の国民が反対して除幕式が中止になったとの報道がなされていました。ボクは残念だなーっと思ったのですが、広島に原爆を投下したB29エノラゲイの機体を展示しているのをわれわれ日本人が見て反対するのと同じで少し複雑な思いであります。
 人権擁護法案の関係で、1日だけとなったがもう一度見たい。また行きたい。場所のひとつです。こんどは誰と行こうかな。たぶん家族です。
 久しぶりにまじめな文章を書いたな。

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「鹿児島県研修旅行に参加して」
小西 孝
戦争は最大の人権侵害であるということが叫ばれて60年余がたちましたが、今もなお地域紛争やテロが続いています。
そうした中、今回鹿児島県にある知覧飛行場跡地にある「知覧特攻平和会館」において、第二次世界大戦の末期に劣勢に追い込まれた日本軍は、戦闘機に片道燃料と爆弾を乗せて、敵艦めがけて突撃する肉弾攻撃を敢行するため、国内や中国などから17歳〜27歳ぐらいの若い兵士を集めて特別攻撃隊を編成し、終戦まで続けられました。会館には、この知覧飛行場から飛び立った特攻隊員が残した遺書など貴重な資料を収集し展示を行ない、平和の尊さを後世に語り継いでいます。また、映画「ほたる」で紹介された「富屋食堂」(ホタル館)を見学したなかで、朝鮮国籍でありながら厳しい差別のため、日本人として特攻隊員となった方の残された手記等の資料を目のあたりにした時、自然と涙が込上げてきて思わず外に出ていました。
私の子どもが今年20歳になりますが、同年代の青年が特攻隊員として家族や国を守る為と信じて、南の海に命を散らして行ったのかと思い、悲惨な戦争の爪痕と現在ある平和の尊さとその中で生きていることの喜びを実感しました。

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