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想フコト
私たちの社会で今起きていること・・・
私たちの社会で今起きていること・・・
「私は、医者になりたい!」クルド難民少女の夢
(レポート  池田清郎)


(1)千葉県鴨川で・・・
 最近のことだが、高校生を対象にした全国的な集会をサポートするということで千葉県鴨川市に行ってきた。鴨川は、房総半島の先端にある館山の少し手前で、海岸沿いにあるあまり大きくない町だが、風光明媚というか海が素晴らしいところで、釣りやサーフィンの国際大会が開かれることで有名、私が行ったその日も、海岸に釣り人やサーファーが大勢出ていた。
 話しはそのことではなく、高校生の集会にゲストとして出席していたビシュラさんという中学生のことだ。彼女は、埼玉県に住むトルコ系クルド人で、私たちに自分の生い立ち、家族のこと、そして将来への夢を語っていた。
 私は以前、アフリカへ行ったとき、その中継空港、カタールのドーハで往復18時間くらいとどまっていたことがあった。そのとき空港のなかで、さまざまな国や地域のアラブの人たちが行き交うのを見かけたが、微妙に服装が違うと思う程度で、民族の違いに判断がつかなかった。多分、欧米人が私たちアジア人を見ても日本人か韓国人か、はたまた中国人か分からないと思うことと同じかも・・・。だから鴨川で彼女を見てもクルド人と聞いても「そうなんだ」と思う程度で、まして今極めて厳しい状況におかれているということの知識もまったくなかった。
 私たちの知るクルド人は、湾岸戦争以来のイラクのさまざまな出来事のなかで、イラク北部(トルコ国境近く)のクルド人に関わるニュースで知った程度だと思う。そんなことだから、私たちは、そのクルド人のことをさしたる関心もなく見過ごし、遠い遠い国のことで、日本と接点があるようにも考えていなかった。


(2)トルコ革命とクルド人の受難
 クルド人は、トルコ、イラク、シリア、イランにまたがる地域(中東のほぼ中心の山岳地帯)に住み、国をもたない世界最多の民族集団で、現在約3,000万人いるといわれている。これは、中東全体でもトルコ人、アラブ人、イラン人に次いで4番目に多い民族だ。彼らの多くは、先祖代々というか民族のアイデンティティというか、羊の飼育と農業、そして遊牧で生活を送ってきているが、例えばフセイン政権下での抑圧によって民族の独立をめざす動きにも現れてきているように、自分たちの国家をもっていないことに起因する(そう感じる人も多くいる)さまざまな抑圧の歴史があるという・・・。私には多くは分からなかったが、それでもトルコではうまくいっていたとも聞いたことがある(私も含めて、多くの日本人はトルコには極めて好意的である)。
 トルコには、一番多くのクルド人(約1,200万人)が生活している。中東で確固たる歴史と勢力を奮っていたオスマン帝国が、第1次世界大戦後に崩壊し、その広大な領土は西欧諸国の分割統治(権益の分配)の末、さまざまな国に分離独立をした。そして、一応は革命によって現在のトルコ共和国も誕生したが、そのことによってクルド人の状況が一変するのである。クルド人の住む地域は、クルド人の意思ではなく、西欧諸国や他の中東の国々によって分断されたのである。
さて、トルコ革命は、国民国家主義を基本にすすめられ、単一民族化を強力に打ち出し、クルド人の言語やクルド語による教育、音楽、習慣などさまざまな点にわたって禁止し、強制的にトルコ化を図っていくのである。しかし、このことは反対にクルド人の民族性を覚醒させ、1980年頃から独立国家をめざす運動が広がっていくのであった。
急に「今日からクルド語の使用は禁止する。これからはトルコ語を使え」といわれても、中高齢者を中心に対応できない人がいるのは当然のことであるし、言語や習慣は仕事とも深く関わってくる。そして「クルド語を使った」との理由で警察に捕らえられたり、国の政策に反対だとして投獄されたりということが次々と起きてくる。さらに政府は、独立運動と厳しく対峙し、クルド人全体がそれに巻き込まれていくのであった。そして、警察や軍隊に捕らえられた後に安否がまったく不明という話しや拷問、襲撃、暗殺ということも報告されている。
最近、トルコ政府は国民主義の緩和策をとってきており、イラクでも状況は徐々に変わりつつあるといわれている。しかし、依然として民族独立の運動が続いており、政府によるクルド人全体に対する虐待行為も存在するといわれている。こうした状況下で、EU連合への加盟をめざしているトルコに対し、EU諸国がクルド人への抑圧を非難している。
こうした情勢のなかで、身の危険や将来への絶望感から国外へ多くのクルド人が脱出している。こうした事態に、国連難民高等弁務官事務所は国外脱出したクルド人を「難民条約」に基づく難民として扱っている。


(3)日本でも同じようなことが・・・
 トルコ政府がおこなってきた「国民国家主義」は、日本でも明治以降に同じような政策を取り続けてきている。また以前、中曽根首相が「日本は、単一民族国家」と発言し問題になったが、日本の場合、アイヌ民族や沖縄(琉球)、さらには旧植民地地域への政策がそれにあたる。
アイヌ民族に対する強制と収奪は、最近まで存在した「北海道旧土人保護法」に象徴されており、アイヌ民族が先住民族であることと国がおこなってきた収奪の歴史を公式に認めたのは数年前の衆参両院の決議によってのことだ。狩猟民族であるアイヌは、差別と迫害によって、土地や狩猟の機会や場所を奪われ、言語や習慣という文化を破壊されてきている。
沖縄に対しても琉球王国の消滅と日本への編入をすすめた「琉球処分」(台湾も含まれている)によって沖縄県として統合するが、その後も「沖縄人」として差別的な扱いを続けていた。そして、姓氏改名の強要、第二次世界大戦末期で沖縄戦の直前に出された「沖縄語を話したらスパイとみなして処分する」という軍司令部の通達がある。現に、軍隊は多くの沖縄県民を「スパイ容疑」で生命を奪い、集団自決を強要するなどのことが起きている。
 また、本年が「日韓併合」100年にあたるが、朝鮮(大韓民国)をはじめ旧植民地で行われた「皇民化政策(徴兵・姓氏改名・教育など)」は、トルコ政府の建国以来の政策と同じような内容である。

(4)エルトゥールル号の遭難と友好
 1890年、明治23年9月、嵐のなか、和歌山県串本町沖を航行していたオスマン帝国当時の海軍の軍艦エルトゥールル号が遭難し、600人近い犠牲者を出したが、そのとき住民たちが決死の救難活動をした。このできごとが日本とトルコの友好関係の始まりといわれている。日本では最近クローズアップされてきているが、トルコでは日本を語るときに必ずこの話しが出るという。
 最近のことでは、1985年のイラン・イラク戦争のときにイラン国内に取り残された215人の日本人をトルコ政府が救出した。また、2002年にサッカーのワールドカップが日本で開催されたとき、串本町を中心にトルコチームを応援している。
また、「カッパドキア」「インスタンブール」、数々の世界遺産とトルコ料理などなど、大人気の観光地でもあり、日本から観光に行く人も非常に多い。
 日本とトルコの政府間の公式な友好関係は現在のトルコ共和国が発足してからになるが、実際は90年近い歴史をもっている。


(5)日本と難民
 話しを戻すが、日本には埼玉県を中心に400人近いクルド難民が住んでいる。日本は、難民条約を批准しているが、これまでも「難民認定」をして受け入れるということには極めて消極的だといわれている。
 外国の場合、その人の「人権」を重要視し、難民としての要件を十分満たしていない場合でも、「滞在許可」ということで対応している場合が多い。それは、難民のほとんどが政治や宗教などを理由に国で迫害を受けている人びとである。そうした人たちを国外退去や強制送還した場合、生命の危機に追い込むからで、「生命と人権の尊重」からの対応である。
 しかし、日本の場合は中立公正に対応していると関係官庁はいっているが、あきらかに相手国への関係に配慮した対応を優先させている。
 当然のように、クルド難民の申請に対し、国連が「難民」と認定しているのにも関わらず、一件も「難民認定」していない。その理由を『迫害の事実がない』としている。そして、国外退去や強制送還をしようとするが、申請者が急遽、ニュージーランドやカナダに脱出し、それぞれの国で「認定」されるということが起きている。


(6)メティンさんの家族
 クリチュ・ビシュラさんの父、メティンさんは12年前に政府の迫害を逃れ、知人を頼って日本の埼玉県にやってきました。それから申請を繰り返しながら現在に至っている。 9年前にビシュラさんは、父を尋ねて母と妹とともに来日しました。その後、二人の弟が生まれ、ともに日本の学校教育を受けている。
 メティンさんは、何度も難民申請をしるも認められず、仕事につくこともできず(申請中は、就労が認められていない)、いつ入国管理事務所に強制収容されるか分からない状態にある。当然、生活も支援者からの支援だけで、極めて貧困状態にある。
 『私の名前は、ビシュラです。埼玉県川口市の○○中学校の2年生です。部活は、卓球部に入っています。勉強で得意なのは英語です。将来の夢は、医者になることで、理由は、いろいろな人が、病気になっても、それをすぐに治して、人が痛い思いをしないようにしたいからです。どうぞ、皆さん力を貸してください。よろしくお願いします。2010年7月、クリチュ・ビシュラ』


(7)私たちは・・・
 トルコ国内の実情や難民申請に対する日本政府の真意を理解するための情報や知識をほとんどもっていない。私に分かったことは、ビシュラさんをはじめ、彼女の家族がかれている状況だけだ。そして、この状況が決して良いわけがないということだ。
 第二次世界大戦中、日本の外交官・杉原千畝さんが、その職をかけて当時同盟国であったドイツのユダヤ人迫害から6,000人もの人を救った話は、シンドラーと並び有名である。人権とは「誰からも侵されることのないもの」と規定している。人は、どういう状況においても (国家や集団を含む)他者から自分の人権を侵されないというのが恒久の真理である。
 トルコと私たちの国は、極めて友好な関係にあり、とりわけ和歌山県は、その根幹である。このビシュラさんの話は、遠い他国の話ではなく、私たちの極めて近しいところの話である。そして、考えなければならない話・・・。


2011/01/11

頑健(いけだ)
さて、昨年の政権交代を頂点に、近年、全国の自治体で新しい首長が次々と誕生し、なかでも「有名?首長」の動向がマスコミによって日々、伝えられる。
しかし、マスコミのネタではなく、地方自治を真剣に考えるときであると思う

▼総務省(片山善博・総務大臣)を中心に「財源」「役割分担」など「地域主権」の骨格が協議されている。
ようするに「地方のことは地方で」ということであり、選挙の時だけではなく、住民が参画した「自治体の再生(創造)」がカギになる (このことは全国的な流れ)

▼人口の減少など、今、低迷し続けている和歌山で今月、知事選が予定されている。
これまで、選挙の時に「初めて来た人」や「県出身と知った人」といったことであった。
こうした人たちの政治能力を否定しないが、問題は、「何処かで用意された人」に対し「県民は投票するだけ」で良いのかということである

▼さまざまな考え方があると思うが「地域主権」が叫ばれる今、地方自治はやっぱり「和歌山で生まれ育った人」で、基本的な姿勢として、「人情」や「生命」を大事にするということが重要だと思う。
そして、これまでの流れを「変えやなアカン」ということだ。
2010/11/01

知覧に行って(いけだ)
久し振りに、「想うこと」を書きました。 先日、事務局のメンバーとともに鹿児島県知覧を訪ねました。初めの予定は、沖縄にと思っていましたが、飛行機の便やホテルの都合がつかず、急遽「知覧」に決めました。と言っても「知覧」は、絶対に行きたいと考えていたもので、深い思いをもって訪ねました。

 「知覧特攻平和会館」は、陸軍知覧基地の跡に建てられている。ここは、陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、多くの少年兵の飛行訓練所であったが、米軍がいよいよ沖縄から本土の迫ろうとした時、「特攻基地」となり、多くの若者たちがここから太平洋へと飛び立っていきました。平和会館には、航空機(海から引き上げられたものも含め)、特攻隊員として若い命を終えた1035名の遺影、遺書、遺品、関係フィルム等が展示され、敷地内の特攻平和観音堂には1026柱の特攻隊員の霊が祀られているそうで、また、特攻隊員が寝起きした三角宿舎も残されていました。

 また、帰りに「富屋食堂(ホタル館)」を訪れた。若い特攻隊員の安らぎの場所で、店主の鳥浜トメさんは、自分の着物や持ち物を処分して、そうした特攻隊員にふるまったそうで、とくに「アリラン」や「ほたる」の話は有名であります。

 感想や思いについては、参加したメンバーの感想文をアップしますので、そちらを見ていただき、私の感想もそちらでご覧下さい。
 沖縄―知覧―無言館―丸木美術館、そして遊就館を是非訪ねていただきたいと思うし、私自身の近いうちに家族と行きたいと考えています。
いよいよ本格的に今年の夏を迎えようとしています。今から60余年前、その時代に生き、亡くなっていった多くの人々に思いをはせ、平和のこと、戦争のことを考える夏にしたいと考えています。
2008/06/20

『世界人権宣言』(いけだ)
新しい年、2008年を迎えました。とくに本年は、『世界人権宣言』が出されて60年目にあたります。
1948年12月10日、国際連合の第3回総会は、多く生命を奪った第二次世界大戦への痛烈な反省のもとに、「世界人権宣言」を採択しました。第二次世界大戦の犠牲者は、5千万とも6千万ともいわれており、原爆、ドレスデン爆撃(ドイツの都市)、南京事件、東京大空襲をはじめ無差別殺戮の例を見ても実数は確定されていない。また、ナチスドイツによるユダヤ人・障がい者、ロマ(差別的にジプシーと呼ばれている)に対する残虐な行為や日本軍石井部隊などの人体実験をはじめ残酷な行為が行われていた。
こうした事実と第三次世界大戦への恐怖を背景に、「戦争こそが最大の人権侵害である」と位置づけ、世界のあらゆる国や地域から差別と貧困を排除し、人権を確立ことで恒久の平和を実現することを誓い合ったのでした。その後、人権週間や国際年(テーマ別に10ヵ年)の設定、国際条約の発効を基本に、多くの国々や人々の努力が重ねられてきました。しかし、こうした取り組みにも関わらず、現在でも依然として世界各地に対立や憎悪が存在し、多くの生命が奪われ、差別と貧困によってその存在が脅かされている人々がいます。
私自身も昨年、中東(カタール)経由でアフリカのケニアに行き、多くの南アジアやアフリカの人々の話を聞き、格差・貧困・差別・生命の危機について改めて聞かされてきましたが、そのケニアも大統領選挙を引き金に混乱の極みにあります。全体的にも『21世紀は人権の世紀』ということも『平和・人権・環境』という基本テーマも程遠い状況があります。それでも決して絶望的ではありません。多くの人々がこうした事実を知り、平和や人権について素直に考え、行動する限り、道が開かれているし、人類の自然の流れです。

日本の社会に置いても例外ではありません。格差が拡大し、日常のように部落差別をはじめ様々な差別や人権侵害事件が起きているのです。とくに、このホームページがある一方で、インターネットで悪質で卑劣な行為が溢れかえっています。
こうした状況をふまえたとき、真の意味での人権を基調とする政策と法的整備が急がれます。先日の参議院本会議での鶴保庸介議員の質問でも、具体的に差別行為の規制と被害者の救済を求めた『人権擁護法』の早期成立が求められていました。しかし、新聞報道でもあるように、法制定の方針を出している自民党が、党内での反対論によって、なかなかまとまらないでいます。
私は、『世界人権宣言』の意義や「日本国憲法」の基本理念からして、『人権擁護法』の制定は、当然のことであると考えています。そして、「真に人権が確立された共生の民主社会」の実現こそが人間の自然の道筋であると思います。

『世界人権宣言』60年の本年、こうしたことをしっかりと考え、身近なことから一つひとつ行動する一年にできたらと思います。
2008/01/28

イムジン河
最近、私の友人たちの中で(スナックで)『イムジン河』を歌うのが少し流行っています。そうあのザ・フォーク・クルセダーズの伝説の曲で、最近、映画「パッチギ(井筒和幸監督)」でも使われて有名になっています。

この曲の原曲は、つい最近まで朝鮮半島北部の民謡だと誤解をしていましたが、朝鮮民主主義人民共和国の高宗漢 (コ・ジョンハン) 作曲、朴世泳 (パク・セヨン) 作詞によるもので、原題は『臨津江』(リムジン江)といい1957年7月発表されたのでした。ただ、私たちの知っているのは、1968年に、松山猛の日本語の詩とフォクルのメンバーである加藤和彦の採曲により歌われものです。

臨津江は、南北の国境を北から南に流れる川です。原曲は、臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、一番は、臨津江は南に流れているのに、なぜ私たちは南の故郷へ帰れないのかと悲しみ、二番では、臨津江の流れをみて、「北」は鳥が飛び花の咲くきれいな様子を貧しく荒れ果てた「南」へ伝えてほしいという内容です。

しかし、松山の詩は、臨津江を渡って南に自由に飛んでゆく鳥を見ながら、私たちは故郷の南になぜ帰れないのか、誰がそうさせているのかと想いを募らせるというものです。そして、加藤もこの歌を聴いて、それを音符に落として完成させたものでした。加藤自身も北に古くから伝わる歌だと思っていたそうです。

最近のマスコミの報道を見る限り、原曲のほうに違和感をもってしまうが、ことの真相を詮索するつもりはないし、また情報もマスコミ情報以外に知る手段もない。しかし、何れの「詩」も根底に「南北分断」という民族的な悲劇があることは間違いのない事実であります。

私が、10代の終わりに『イムジン河』聞いて、胸にグッときたのを今でも鮮明に覚えているし、今でも歌うと悲しくて胸に迫るものがありますが、これはこの歌の持つなんとも言いようのない曲と詩のせいか、それとも「南北分断」という背景のせいなのか分かりません。以前、ある飲み屋さんで歌手が歌っているのを聞いたが、そのとき隣で飲んでいた初老の男性が、自分が「在日」であることや故郷への思いについて涙を浮かべながら語っていたのを思い出します。青春の頃の忘れられない一曲です。
2007/12/23

和歌山県の組織改革に一言(いけだ)
和歌山県で現在、「機構改革」のための検討が進められています。そして、この検討をめぐって、賛否を含めて様々な声が聞こえてきています。とくに、「共生局」に関わる「女性」「青年」等のセクションが縮小されるとか、10名以下の「課室」が廃止あるいは統合されるとかで・・・・。

 確かに、和歌山県は厳しい財政状況にあり、当然のことであるが、「無駄を省く」という意味での「組織の改革」ということでは理解できることもあります。また、こちらから見ていても、互いの業務が重なっている「課」や、何の担当なのか分かりにくい「課」もあり、早急に整理が必要であると思います。しかし、「改革」の基本は、和歌山県が、何を目指しているのか、どういう「和歌山」を創ろうとしているのかが見えなくてはなりません。

「行政」は、基本的に「人権行政」であり、すべての県民の人権を具体的に保障するとともに、「自己実現」への具体的なサポートが基本的な役割であり、すべての行政施策の核に「人間」が位置づけられていなければなりません。
和歌山県は、以前から若者の流出が深刻な問題であり、高齢化やこれに関わる少子化も大きな問題です。さらに、「男女共同参画」も県条例や基本計画が策定されていますが、まだまだ全体的なものになっていません。こうした課題は、基本的な課題=政策として、総合的に取り組まれなければなりません。

つまり、「人権(同和問題・高齢者・障がい者他)」「女性」「青年」「子ども」については、和歌山県の基本政策として明確に位置づけられ、今まで以上に取り組みを進めて行く必要があります。
そうした視点で、今回の組織改革を機会に、こうした基本的な課題については、例えば現在ある「危機管理監」の様な位置づけをし、総括的な責任者を設置して、具体的な課題に即した課・室として再編していく必要があると考えます。
2007/12/18

薬害(いけだ)
薬害C型肝炎大阪訴訟で大阪高裁が和解勧告を出した。原告団(患者)と国及び製薬会社双方ともこの勧告に基づいて和解協議がなされずと思うが、原告側が主張している原告全員に対する法的責任について国が難色を示しているともいわれている。
 薬害問題は、今に始まったことではなく、薬害エイズ、サリドマイド、クロロキンなど、そしてその度に国は患者に謝罪をしている。
しかしこうした薬害問題の背景には、関係製薬会社の営業姿勢や監督官庁である厚生省の体質があると思う。
それに癒着も・・・。
さらに、見逃せない事実は、訴えられている製薬会社「田辺三菱製薬」の前身は、田辺製薬と旧ミドリ十字が中心となっている。
そして直接的に薬害C型肝炎を惹起させたのは、「旧ミドリ十字」である。
つまり、薬害エイズを引き起こした当事者である。

このミドリ十字は、戦前の関東軍将校である石井四郎中将(731部隊)の右腕として、国際法で禁止されている生物・化学兵器(細菌・毒ガス・・)の開発を直接行った内藤良一が、戦後設立した製薬会社である。
問題は、この生物化学兵器の開発をする際に、数百人の中国人を人体実験で殺害していることである。
しかし、戦後彼ら旧石井部隊関係者は誰一人裁かれていないのは、人体実験のデーターをGHQに渡す代わりに免責されていたからであった。
ミドリ十字は、その後、自衛隊での集団食中毒、血液製剤データーの改ざん、未承認の人工血液の投与などの事件を起こし、さらに薬害エイズ問題を引き起こしている。
また、このミドリ十字は、創立者である内藤良一以降、旧厚生省官僚が経営権を握って経営されてきたといわれているのである。

私は、「過去の罪」を暴露するつもりはないし、この「薬害C型肝炎」や「薬害エイズ」の背景に、こうした「過去」の問題があるのか断定はできないかもしれない。しかし、旧石井部隊による人体実験、旧GHQ関係者の「貴重なデーターを安く手に入れた」(記録)という感性の中に、大変な恐怖を感じる。

この際、薬害C型肝炎訴訟に対する和解をすべての訴訟・患者に関って早急に進めるとともに、事実(原因と責任の所在)を明白にすることが大事だと思う。
また、これまで小説やルポ、TVに何度か取り上げられてきたが、いまだに「石井部隊はなかった」とまでいう状況のなかで、この存在を明白にし、社会的にしっかりと総括していくことが必要だと思う。
2007/11/08

織江の歌(いけだ)
福岡の田川地方(田川・飯塚)に行ってきました。
いわずと知れた炭鉱の街、2年前にもこの地を訪ねています。
前回は、田川・石炭博物館を時間をかけてまわらせて頂きましたが、今回は軽くし、博物館の傍の丘に登り、丘の上に建つ炭鉱犠牲者の碑や朝鮮人徴用犠牲者慰霊碑を訪れました。

筑豊炭鉱は、1872年(明治5年)の明治政府による鉱山開放令によって民間による炭鉱開発が急速にすすみ、さらに1901年の八幡製鐵所の操業開始により急速に需要が伸び、その後、日本一の生産量を誇るが、エネルギー政策の変化によって急速に衰退し、1976年(昭和51年)に閉山しています。急速に開発がすすんだ時期、全国から多くの労働者が集まり、さらには「徴用」と称して強制連行等による朝鮮人労働者が集められ、その労働環境は苛酷を極めたといわれています。実際、大半の労働者は常に怪我に見舞われており、犠牲者の実数は不明であります。
そして、その背景に、部落や朝鮮人に対する差別や過酷な生活が語られています。

こうした筑豊炭鉱の状況は、五木寛之の小説「青春の門」で描かれ、浦山桐郎監督で映画化されています。
小説も映画もそれなりに意味があるが、私には山崎ハコの「織江の歌」(織江の唄)が強烈な印象として残っています。
丘の上から田川地方を眺める、遠賀川越しに正面に香春岳を望み、左に鳥峠(とりおとうげ。からすとおげ=田川から飯塚への)・・・そして三つのボタ山。


----------「織江の歌」(織江の唄)------------
遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす
信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに会いとうて 烏峠ば超えてきた
そうやけん 会うてくれんね 信介しゃん
 すぐに田川へ帰るけん 織江も大人になりました

月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ
信ちゃん 信介しゃん うちは一人になりました明日は小倉の夜の蝶
そうやけん 抱いてくれんね 信介しゃん
どうせ汚れてしまうけん 織江も大人になりました

カワラダケ バスの窓から中学の 屋根も涙でぼやけとる
信ちゃん 信介しゃん うちはあんたが好きやった ばってん お金にゃ勝てんもん
そうやけん 手紙くれんね 信介しゃん
何時か何処かで会えるけん 織江も大人になりました
----------------------

様々な思いに駆られた、田川でした。
2007/10/10

考えること(いけだ)
先日、解放新聞社の取材を受け、それが活字になっていました。しかも大きな写真入で・・。
はじめは、今年の1月にケニアで開催された「世界社会フォーラム」についてということでしたが、取材の人との話で、結局私自身のことが中心になってしまいました。活字になって気づいたのですが、結構恥ずかしいもので、とくに「連れ合い」には見せられないなぁ・・って思う箇所もあり、少し気恥ずかしい思いです。

それはともあれ、最近、私自身いくつかの出来事に遭遇し、考えさせられました。
前回書かせていただいた「平和ツアー」もそうですが、先週の日曜日に「部落解放同盟県連女性部」の定期総会に出席しました。総会では、私も含め何人かの来賓の挨拶がありましたが、その中の一人が、私の子どもの頃からの友人で、(尊敬している一つ上の先輩です)私が若い頃公務員を辞めて現在の道に入ったのですが、彼は(結構、ブツブツ言いながらもー笑いー)現在も続けられています。
 その彼が『今の社会は、差別を継続させ固定化する状況にある。そして、常に女性や子どもが社会・男社会の身勝手で犠牲を強いられている。その女性自身が意識を変え、自ら様々なことに意見をいい、行動を起こさなければ、絶対にそうした社会が変わらない』『とくに、行政に対してはそうあるべき・・』と挨拶をしました。関心しきりでしたが、一方では「立場的に大丈夫かなぁ・・・」って思うが、彼は全く平気な様子でした。そんな意識をもって発言できる行政関係者があることに、非常に心強いものを感じました。

さて、最近、「年金問題」が大きな社会問題になっています。実は、被差別部落の殆どの人が、この渦中にあるのです。
以前に行った和歌山県の調査で、県内の関係者に極めて多数の「無年金者」が存在することが明らかにされていました。
 その理由は、部落差別の結果、不安定就労を余儀なくされ社会保障制度から疎外され、「皆年金制度」のもとでの国民年金にも生活の不安定要因や情報の不備が影響して払っていなかった人があります。さらに、職歴をみても転職や他事業所への移動を繰り返してきており、加入者であっても極めて職歴等が複雑になっています。

もう一つ、しっかり押さえなければならない問題があります。部落問題に関わる「格差」であります。
以前からこの「格差」=「差別の実態」という捉え方が多数を占めてきました。
そして、最近になって、この「格差」がなくなってきたかっら「差別はない」と主張する人も少なくありません。とくに、最近「非正規雇用」が50%を超えているといわれ、低所得者層が固定化されて、「下流社会」という言葉すら現実になっています。
しかし見誤ってはならないのは部落差別の実態です。「年金」の例を見てもわかるように、被差別部落は一貫して不安定就労=低位な生活実態を余儀なくされてきているのです。「高度成長時代」ー「バブル」ーそして「現在」と有効な手立てがないままになってきているのです。だから、「格差」がなくなってきたから「差別がない」のではなく、依然として差別の実態が存在しているということです。

すべてについてですが、現実に起きていること、現実の実態・・事実をしっかり見極めること、そして社会に起きていることすべての当事者(主体的な立場を自覚して)が私たち自身であることを考え、それを変えるのは私たち自身の行動であります。
2007/07/26

平和について(いけだ)
先日、和歌山地区労センターの主催する「平和スタディーバスツアー」に参加してきました。
長野県上田市「無言館」、埼玉県東松山「原爆の図・丸木美術館」そして、靖国神社内「遊就館」の三箇所が目的場所です。参加者は、そろって若くて多分私と事務局の藤原さんあたりが高齢者(笑)になると思い、妙な緊張感(全く関係のない)がありました。

さて、経路や細部のことは省くとして、「無言館」は、真田一族の故里の山中、ハイキングコースから少し外れたところにあり、なかなかのモノ(失礼な言い方でした)。
「無言館」では、詳細な説明もパンフレットも見つけることはできませんでした。ただ、戦争で亡くなられた画学生や若い画家たちの作品や手紙が静然と展示されているだけでした。戦争や平和について語るでもなく、それこそ無言のまま静かに・・・。外は、もう初夏の様相なのに、皮膚がザワザワしてくる・・。
そんな「無言館」の入り口にある説明のオブジェに悪戯をする人があるといいます。そういえば、沖縄読谷村の集団自決したカマの入り口にある金城さんの塑像が、以前壊されたことを思い出す。哀しいです。

二つ目の目的地「丸木美術館」は、武蔵野雑木林の面影が残る場所にあります。
丸木位里(日本画家)、丸木俊(洋画家)夫妻の「原爆の図」は有名です。位里さんのご両親が住む広島に原爆が投下され、その直後に広島を訪れた丸木さん夫妻は大変な衝撃を受け、5年後に《原爆の図》第1部「幽霊」を完成させました。その後、描き続け15部作にもなっていました。表現のしようのない残虐で希望のない極限を舞台にしながらも生きとしいけるものすべての生命へ畏怖と愛情に満ち溢れた作品の数々は、観るものを圧倒してしまいます。

翌日の朝。私たちは、「靖国神社」へ・・。
目的は、参拝ではなく資料館である「遊就館」へ行きました。
『戦争』について説明では、「我が国の自存自衛のため、皮膚の色とは関係ない自由で平等な社会を達成するために避けることができなかった」となっています。
そして、尊い命を捧げられた人たちが「英霊」として祀られています。A級戦犯の人たちも・・・。

果たして・・・「無言館」で、生活は無論のこと、夢や希望、近親者への愛情、そして郷愁・・それらすべてを奪われた若者たち。「原爆の図」で観た、すべての生きとし生きるものの命。そして、「英霊」として「祀られている」人々、さらに殆ど触れられていないアジアの人々の命・・・。
だめなんです、絶対に・・。理由なんてなく、まして「正義」「避けることができなかった」なんて云うべきじゃない。戦争は究極の犯罪行為であり、差別なんです。
2007/06/19

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