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3日目 9月14日(日)


【平和の願いを新たに】

読谷村を後にし、南の糸満(いとまん)市へ向かった。
目指す場所は沖縄県平和祈念資料館。
美しい海を見渡せる摩文仁(まぶに)の丘に、「摩文仁の丘から平和の波を」をテーマに設立された「平和祈念資料館」や「平和の火」を中心に「平和の礎(いしじ)」、そして戦没者の慰霊塔、戦没者墓苑などが広がっている。


「平和の礎」は沖縄戦による戦没者の氏名が沖縄県内は市町村別に、その他は都道府県別に一人ひとり刻銘されている。
2003年6月23日現在で、沖縄県の刻銘者数は148,446人、沖縄県外で75,457人、そして米国を中心とする外国人14,526人の名前もある。
当然ながら、米軍兵の名前を刻銘し弔うことには反対の意見もあったそうだ。
しかし、沖縄戦で犠牲になったすべての人の霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の恒久平和を願おうという思いから、名を残すことになったそうだ。
摩文仁の丘を後にして、ひめゆり学徒隊の慰霊碑「ひめゆりの塔」へ参拝に向かった。
「ひめゆりの塔」は沖縄女子師範学校と県立第一高等女学校の職員・生徒の慰霊塔である。
沖縄戦では、県下女子中等学校の生徒らに看護訓練を強化し、学徒隊を編成、何の法的根拠もなく戦場に駆り立てたのだ。
1945年3月23日深夜、軍司令部の命令で寮生全員と自宅通学生の222人と職員18人が南風原陸軍病院に配置され、他地域でも学徒80人、職員3人が動員され、戦線に組み込まれた。


生徒達は身の危険も顧みず、負傷兵の看護や死体処理、医療器具・薬品・食料の運搬などに献身的に従事した。
首里陥落により壊滅状態となった軍は、戦場の真っただ中、米軍の包囲網の中で学徒隊に解散命令を下した。
しかし生徒たちには投降も許されず、帰るところもなく、ただ地獄の戦場をさまよいながら死んでいくしかなかったのだ。
塔に刻まれている職員16人、女学生194人のうち128人は、この解散命令後の戦死者なのだ。

隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」には「戦争と教育」を基本テーマに、地上にあるひめゆりの塔からは見えない地下部分を忠実に模した第3外科壕のジオラマ展示をはじめ、5つの展示室がある。
この資料館は、ひめゆり学徒隊の生存者たちが、「真実から目を覆われ、人間らしい判断や思考も、生きる権利されももぎ取られ、死の戦場に駆り立てられた、あの時代の教育の恐ろしさを、決して忘れません。
戦争を知らない世代が人口の過半数を超え、戦争体験も風化しつつある今日、しかも、核の脅威にさらされる昨今の国際情勢を思う時、私達は、私達の戦争体験を語り継ぎ、戦争の実相を訴えることで、再び戦争をあらしめないよう、全力を尽くしたいと思います。」という願いから建設されたものである。
この史実は、映画化もされたが、資料館内で学徒隊の生存者が語り伝える話は、そんな生易しいものではなかった。
そして、展示されている焼け焦げた医療用具や、女の子らしい生徒達の私物や手紙、何も分からないまま動員され、負傷者の手を握りながら死をみとる悲しみをつづった日記など、これは決して映画の中の出来事ではなく、その中で生き残ることができた人がまさに目の前に存在する、過去の思い出とは呼べない、今もなお続いているまぎれもない事実なのだと....。


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