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被爆69周年原水爆禁止世界大会(長崎大会)

8月7日〜9日
長崎県

 広島と長崎に原子爆弾が投下されて今年で69年。
被爆69周年長崎大会は広島大会から引き継ぎ8月7日から長崎ブリックホールで始まりました。開会総会には1800人が参加しました。
大型台風13号が接近する中、長崎に無事に到着することができるか心配でしたが、なんら心配なくいいお天気です。

 主催者の長崎原爆の被爆者でもある川野浩一・大会実行委員長は、「集団的自衛権の法制化の作業がこれからはじまる。憲法96条の改正をしようとしており日本は戦争する体制が整えられつつある。集団的自衛権の行使を認めてはいけない。」私たちは最大の緊張感をもってこの事態に向き合い、戦争への道をストップさせなければならないと参加者に呼びかけました。

海外ゲストを代表して、ドイツ連邦議会議員、緑の党ステフィ・レムケさんは「ドイツでは脱原発をすすめ再生可能エネルギーへと進んでいる。」と語られました。




 大会基調提案を、藤本泰成・大会事務局長がおこない「核と人類は共存できない」と核絶対否定の理念を提案しました。
 福島からの訴えを半澤周二・福島県平和フォーラム副代表がおこない、いまでも13万人がふるさとに帰れず避難生活を続けている。原発の再稼働をゆるさないと訴えました。
 長崎からのメッセージとして田上富久・長崎市長は、「核兵器の非人道性は長崎、広島がずっと訴えてきたもの。戦争体験のない人たちが伝えていき市民運動の力を信じて仲間とともに平和への道を進んで行こう。この大会が素晴らしいものになることを願っている」と大会への期待を語られました。



 被爆者の訴えでは、山内武さんが、「69年前の8月9日プルトニウム爆弾により10.2キロ以内で被爆したが国は被爆を認めてくれない。長年差別を訴えている」と支援を訴えました。
 そして、「第17代高校生国連平和大使」「高校生核廃絶一万人署名活動実行委員会」の60人が檀上で、原発のない世界と平和の大切さを語り、平和運動の継承を宣言ました。


最後に「原爆を許すまじ」を全員で合唱し、1日目の開会総会を終えました。



 


 2日目は、端島(軍艦島)上陸ピースクルーズに参加する予定でしたが、台風の影響で中止となったため、NBC別館ビデオホールでおこなわれた分科会「見て・聞いて・学ぼう”ナガサキ”−証言と映像による被爆の真相と平和運動交流に参加しました。


 被爆体験講和を八木道子さんが語ってくれました。爆心地から3.3キロの鳴滝町で6歳の時に被爆、8月9日は空襲警報が解除され、一機の飛行機が長崎の空を飛んできて、まさかアメリカの飛行機とは思わず、兄姉弟で空を見上げていたそうです。
一瞬、周りが真っ白になるようなすごい光が差し、直後にドーンとものすごい音がしたそうです。
今までうるさいぐらいに鳴いていた蝉の声が一瞬にして消え、やけどを負った人の体に湧く無数のうじ虫となんとも言えない異様な異臭は今でもはっきりと記憶にあると語っていました。
被爆者の平均年齢は79歳となっています。
「原爆は一瞬にして日常生活をしていた多くの人々をこの世から消し去ってしまった。無差別に人を殺してしまう戦争は最大の差別である。平和の大切さを伝えていかなければならない」と強く訴えられました。



 午後からは被爆遺構めぐりのフィールドワークに参加しました。
   5コースのうち私が参加したのは、爆心地公園→刑務支所跡→中国人追悼碑→山里小学校→白山基地→如己堂のコースです。

@原爆投下中心地

A浦上天主堂

B平和公園



 1945年8月9日午前11時2分、上空500メートルから投下されました。爆心地の温度は3000度から4000度と推定されます。長崎には当時24万人の人が暮らしていましたが、死者は7万4000人、負傷者は7万5000人。
 爆心地から北東へ500mの小高い丘にあった浦上天主堂は原子爆弾の炸裂により破壊され、まわりの壁のみになってしまった。その遺壁の一部が移築されて残されていた。
 当時松山町には300世帯約1860人の人々が暮らしていました。松山町防空壕に避難していた9歳の少女たったひとりだけが生存者でした。被爆地層には原爆で溶けたガラスや瓦などが残され、被爆当時の悲惨な資料として保存されているそうです。



C浦上刑務所支所
約4万人の中国人を強制連行して炭鉱などで働かせていた。原爆により刑務所職員18人と家族35人、収容されていた朝鮮人13人と中国人32人全員が即死しています。



D乙女の像
平和公園内にはたくさんの平和モニュメントがあります。乙女の像は中国から贈られたものです。しかし、1986年にこの像に赤いペンキがかけられる事件があったため、この像だけが周りに柵が作られ監視カメラが設置されています。


E山里国民学校
 爆心地から北は600mの場所にある小学校。男性教員は防空壕を作り、女性教員は田畑仕事をしていた。全児童1581人のうち、約1300人が犠牲となった。
 運動場には多くの死体が集められ、焼かれた。ここの防空壕で生き残った人は4人。
校内には3つの防空壕が今も残されているが、崩壊の危険を理由に補修改善されていました。
 被爆から4年目、永井隆医学博士は山里小学校の児童たちの体験した原爆の悲惨さをまとめ、本にしました。この本の印税を児童たちが寄付をして「あの子らの碑」が建てられています。


F白山基地
 浦上地区で爆心地の一番近い墓地。墓標には一家で名前が連なっていたり、原爆の強烈な熱線で表面が焼けてしまったりしている墓がありました。


G如己堂(永井隆)
 島根県出身の永井隆さんは医学の勉強のため長崎に来て被爆しました。如己堂は2畳一間の小さなもので、永井隆博士の病室兼書斎。2人の子どもと暮らしていた場所です。原爆によって連れ合いの緑さんは身に着けていたロザリオとわずかな骨しかみつからなかったそうです。永井博士は長崎に原爆が投下される以前からレントゲン検診の際に浴び続けた放射能によって、被爆前から白血病で余命3か月だったが、病と闘いながら原子病の研究を続けていました。
 ガイドをしてくださった長崎被爆二世の会事務局長の崎山昇さんが永井隆さん著「いとし子よ」という本の「鳩と狼」を紹介してくれました。
うろ覚えなので原文とは違っていますが、「日が経つにつれ、戦争の悲惨さが忘れ去られていく…人間とはおろかなものである」という言葉が心に響きました。永井さんの思いを長崎県民として受け継ぎ、語り続けていきたいと話されました。
 







 最終日は、長崎県連原爆犠牲者追悼法要に行きました。例年は、灼熱の中での法要のようですが、今年は時折吹く強風のためか涼しく感じました。

郷土振興会代表の中村由一さんは、「8月9日の11時2分に投下された原爆は浦上の町を焼きつくし、生き残った人も深い傷を負った。1954年に、2キロ以内の被爆者に手帳が配布されわずかな支援がおこなわれたが、いまもなお原爆症で苦しんでいる人がたくさんいる。
東日本大震災から3年が経とうとしているが、故郷に戻れず差別を受けている。二度と被爆者を出させないという誓いをする」とあいさつをしました。
 九州ブロックの原伸一中央執行委員と兵庫県連阪本三郎中央執行委員が参列されまた。
 同時に今日、原爆追悼慰霊祭が平和公園で行われていました。世界では紛争が起こっており、安部内閣は戦争のできる国づくりへと進んでいます。被爆国である日本でも、自らの手で原発による被爆者を出してしまいました。終戦直後、日本人は二度と戦争はしないと誓い憲法によって戦争をしないことを決めました。しかし、憲法96条を改正し平和主義の定義を定めた9条が変えられようとしています。二度と悲惨な過ちをくりかえさないために、伝えつづけること、平和運動の連帯を広げることが大切だと思いました。

(参加者:藤尾香織、渡部伊珠美、山本佳世・執筆)


広島の追悼式で子ども代表が読んだ文です。

こども代表
「平和への誓い」

 わたしたちは、信じることができませんでした。
 69年前の8月6日、この広島に原子爆弾が落とされ、多くの尊い命が奪われたことを。
 5歳だった祖父は「地獄のような光景が今も目に焼きついている」と語ってくれました。
 広島に育つわたしたちは、広島の被害、悲しみ、そして、強さを学びました。
 爆風により、多くの建物がくずれました。家や家族を失い、ふつうの生活がなくなりました。
 その中で、水道は1日も止まることなく、市内電車は、3日後には再び走りはじめました。
 広島は、人々の努力によって、町も心も復興したのです。
 悲しみや苦しみの中で、生きることへの希望を見つけ、生き抜いた人々に感謝します。
 当たり前であることが、平和なのだと気がつきました。
 ある語り部の方は言いました。「小さなことからはじめてほしい」
 わたしたちは、もう行動をはじめています。友達を大切にし、優しく接しています。
 家族や被爆体験者から被爆の事実と平和への思いを聞いています。
 平和の思いを込めて、毎年千羽鶴を折り、慰霊碑に捧げています。
 平和とはなにか自分で考え、友達とも意見を交流しています。
 平和について考えることで、仲間とつながりました。
 わたしたちは、できることからはじめる勇気をもつことができました。
 welcome to Hiroshima
 みなさんをここ広島で待っています。
 平和について、これからについてともに語りあい、話しあいましょう。
 たくさんの違う考えが平和への大きな力となることを信じて。
 
2014年8月6日
 
こども代表広島市立牛田小学校6年 田村 怜子
広島市立尾長小学校6年 牟田 悠一郎


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