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三鬼 典親

2008年5月14日(水)

県連の一泊研修で鹿児島県に行きました。
鹿児島というと「焼酎・薩摩揚・桜島」等々を連想しますが、知覧特別攻撃隊のことはあまり知りませんでした。
研修が決まって家族で夕食のとき連れ合いの父が鹿児島出身ということもあり知覧に行くことを言うと、「あそこにいくと涙があふれてくる」とだけしか言わなかったことが不思議に思ったが、知覧特効平和会館にいって義父の言った言葉がわかった。

特攻平和会館に近づくにつれ石灯籠が道の両端に並んでいました。
特攻でなくなった隊員の数だけあるそうですが、このあたりから何かしら悲しい気配がしてきました。
平和記念館の敷地内にある「平和観音」にお参りし、二度と悲惨な戦争が起こらないよう改めて心に誓い、平和記念館の中へ入るとそこは自分の想像をはるかに超える悲しい建物でした。

439人の若い命が沖縄の海に消えるために飛び立った基地がこの知覧平和記念館であり、万世・都城・台湾・熊本・鹿屋・太刀洗等々の基地から知覧基地が本部となって命令された1036人もの若者が海に消えて行った。
もちろんその身は跡形もなく砕け、遺骨もなく待っている家族には一枚の手紙が届くだけであった。
記念館には多くの遺書が展示され、それは言葉に出来ないほど悲しく辛い過去を現在に甦りさせてくれた。
17歳から30歳、ほとんどが10代から20代前半の青年で自分の両親や家族にあてた最後の手紙でした。
すべての手紙を読みたかったが時間がなく出来なかったがどの手紙を見ても涙がでてきた。

特攻に使った飛行機が展示されていたが「これで本当に飛べるのか」と思うほどのもので、一部は木製だった。
あとで遺書をよくみると完成されたきれいな飛行機で逝きたかったと、記されたものがあり、正直「こんなボロボロの飛行機で?」と驚いた。

三角兵舎は特攻前夜に宿泊するところだが、半分土に埋まり屋根には草や木の枝を覆いかぶせた粗末な兵舎だった。
朝まで枕を涙でぬらし、遺書を書き家族や愛する人を思い明日は特攻で海に散る青年の気持ちを思うと胸が張り裂けそうになった。

平和記念館を後にして次に「ホタル」館にいきました。
ここは富屋食堂といって、特攻の母として慕われた「鳥浜トメ」さんの食堂を復元し資料館となったものです。
トメさんは若い特攻隊員から「お母さん」と慕われ家庭的なトメさんの人柄に多くの隊員がこの食堂に通い、またトメさんは多くの若者を涙ながらに見送った。
トメさんの書き記したものを見るとトメさんも本当に特攻なんかに行かないでほしいと思っていたことがよくわかる。
特攻隊の隊員が操縦席から笑顔で手を振りトメさんに最後の別れをつげている。


最後に

この研修を終えて、数日後に青年部と女性部の合同学習会を行った。
そこで反戦・平和を議題にして、知覧で学んだことを付け焼刃ではなした。
二度と戦争はしないと固く誓った憲法9条をなんとしても守っていかなければならない。
そして平和のために散っていった青年を忘れず後世に伝えることは大切なことではあるが、決して戦争を美化し、特攻隊を美化することは許されないと思った。


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