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◆ 5月12日 浦添市役所前



朝目が覚めると、こころなしか手足が重い。
腕も日焼けのためにひりひり痛む。
昨日の疲労は抜け気っていないようだ。
2日目の行進は浦添市役所前広場から北谷(ちゃたん)球場までの約15Km。
昨日に比べれば距離も短いし、アップ・ダウンも少ない。
 浦添市役所前での出発式の後、地元の方々の太鼓演奏による見送りを受けて行進をはじめた。
昨日の行進は日本軍による沖縄住民への圧政について学ぶ行進であったが、今日の行進は米軍による圧政について抗議する行進だ。
浦添市街地を通過し、シュプレヒコールをあげて行進する。
陽射しは相変わらず強く、今日もじりじりと腕を焼いた。
気温も湿度も高く、やはり行進開始から1時間も経てば、汗だくになった。
自動車に乗っている人、バス停でバスを待つ人、道端で出会う人、様々な人たちが、私たちの行進に向けて声をかけ、手を振ってくれた。
私たちもそれに応えて手を振り、さらに大きな声でシュプレヒコールをあげた。
沖縄の人たちは、私たちのことを応援してくれるということが実感できた。
普天間基地第2ゲートで抗議活動を行い、休息をとった。
  その後、沖縄国際大学を通過した。
2004年8月、この大学にアメリカ軍のヘリコプターが墜落事故を起した。
事故後、日本国内にもかかわらず、アメリカ軍により事故現場を封鎖し、日本の警察・消防が立ち入られない状況となった。
1972年に沖縄は日本に復帰したが、米軍の事故・米兵によう重大事件が起きても日米地位協定により、沖縄の人々は米軍の横暴に我慢させられている。
未だに沖縄は米軍の管理下に置かれているのと同じではないだろうか?
◆5月12日午後2時


宜野湾市役所で昼食のための休息を取った。
昨日の行進の疲労もあるせいか、約9kmの行進でも体かしんどい。
弁当よりを食べるよりもお茶を飲み干し、体に水分を補給する。
日陰に陣取り、午後の行進のために体を休める。
午後からは、米軍施設周辺を行進した。
普天間飛行場の周囲を行進し、沖縄駐留米軍の総司令部があるキャンプ・フォスターの周囲を行進した。
キャンプ・フォスターは私たちが今まで見てきた米軍基地とは様子が異なっている。
普天間吉や嘉手納基地は米軍の航空機やヘリコプターのための言わば純然たる軍事基地であったのに対し、キャンプ・フォスターは兵士の宿舎・住宅やショッピングセンター、学校まで完備している町である。
私たちを寄せ付けないように高いフェンスで囲み、その中にアメリカの町並みがあった。
フェンスに囲まれた町のなかでは、米軍兵士やその家族たちが買い物を楽しみ、犬と遊んでいる。
その光景は、平和なアメリカのとある町の風景に見えた。
しかし、この米軍施設は沖縄を守るためではなく、沖縄から世界へ戦争をしに行くためにある施設だ。
この施設の特徴を考えると、目の前の平和な光景に言葉にできない違和感があった。
◆5月12日 北谷球場 キャンプ・フォスター


北谷球場 キャンプ・フォスターを通過し、今年の平和行進の3コースのゴールである北谷球場を目指して行進した。
暑さと、行進の疲労で体は疲れていたが、大きな声でシュプレヒコールをあげて行進した。
大きな声をあげていると、疲れて重い足取りが軽くなる。

午後5時、3コースの中で一番早く、南コース平和行進団は北谷球場に到着した。
たった2日間の行進であったが、足の疲労はかなりのもので座ろうとすると、足のあらゆる筋肉が悲鳴をあげた。
夕方の涼しい風を受けながら、体を休め残りの2コースの行進団の到着を待った。
やがて東コース行進団が到着し、最後に西コース行進団が到着した。
どの行進団の参加者は一様に疲労の色は隠せなかったが、平和行進を無事にやり遂げた達成感が顔に出ていた。
夕闇が迫る中、2日間の平和行進の解散式も兼ねた「復帰35周年 平和と暮らしを守る県民大会」が行われた。
大会冒頭、自衛艦が辺野古沖の調査に派遣された事が報告された。
沖縄の海にアメリカの基地を作るために、自衛隊の艦船が調査に向かっていた。
自衛隊は一体何を守っているのだろうか?この状況では冗談でも、日本国民とくに沖縄住民を守っているとは言えないだろう。
また、各行進団の代表より、沖縄各地で平和と反戦を訴えてきたことが報告された。
そして、明日の「5・13嘉手納基地包囲行動」の成功を記念したガンバローコールで終了した。
◆5月12日 北谷町のショピングセンター

  大会終了後、ホテルで夕食を取った。
平和行進を終えた安堵感のためか、疲れた体を癒そうとする本能のためか、それともビュッフェ・スタイルの夕食であったためか、みんなの皿には山盛りの料理。
ビールで乾杯し、皿一杯の料理を食べた。
 食後、ホテル近くのショッピングセンターに行った。
去年もここを訪れたのだが、ここの魅力は夜になると様々なストリート・パフォーマンスが行われることだ。
手品ショーやジャズの演奏会などなど。
ベンチに腰かけ、夜風に吹かれながら、ジャズを聞き、手品を見る。
和歌山ではなかなか味わえない状況を楽しんでいた。
突然、肩をたたかれ振り向くと、背の高い黒人が缶ビールを片手に英語で話しかけてきた。
英語が苦手な私は、何を喋っているかは分からなかったが、彼の身振りで彼が久々の休暇を楽しく過ごし、その気分を私に伝えたいことが分かった。
おそらく彼は米軍の軍人なのだろう、シャツの上からでも分かる鍛えられた筋肉、胸元に光る銀色のネームタグ。
やがて、彼は何かを思い出したのか満面の笑みを浮かべて「Good-night」と言い去っていった。
去り際、私はアメリカ映画をまねて敬礼をした、すると彼はそれまでの陽気な表情を一瞬消して、真面目な顔できびきびとした動作で敬礼を返して去っていった。
やはり、彼は軍人なのだ。
彼はとても気さくで、親しみやすく好意のもてる人であった。
しかし、彼の職業には好意は持てない。
彼の職業は、理由はどうあれ人を殺すことが職業だからだ。
一度アメリカ政府が命令を出せば、沖縄から世界各地に赴き、人を殺す。
それが彼の働く「軍隊」という組織が持つ性格なのだから。
あらためて、見渡せば多くの軍人と思われる人たちがパフォーマンスを見ていたり、買い物をしたりしていた。
その表情には、平和行進で見た米軍基地のゲートを警備する兵士のような厳しいものではなかった。
ふと、キャンプ・フォスターで感じた違和感がよみがえってきた。
彼らが平和な生活を過ごすためには、米軍基地内で働かなければならない。
そして、その仕事とは、人を殺すための訓練か、人を殺す兵器の整備か、命令を受けて人を殺しに行くことなのだ。
誰かの命を奪う仕事をして、自分たちの平和な生活を過ごす。
それが、本当の平和の姿なのだろうか。



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