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◆5月11日午前9時:糸満市摩文仁平和記念公園

沖縄の朝日は容赦がなかった。朝から「これでもか」と照りつける太陽が恨めしい。
1日目の南コースは、沖縄戦終焉の地・摩文仁平和記念公園を出発し、沖縄戦で日本軍が沖縄住民を巻き込んで敗走したコースを逆走、南風原町役場までの約17Kmを行進する。平和記念公園で行われた出発式には、約500名の平和行進参加者が集まった。
 南国の太陽の陽射しを一身に受けて平和行進がはじまった。
昨年行進した西コースは平坦であったが、南コースは勾配がきつい。上り坂かと思えば、下り坂、そして次ぎの上り坂・・・。
行進開始から1時間もすると、顔から汗が噴出してきた。2時間経つと、足の筋肉が引きつってきた。
去年も経験したとはいえ、この暑さ・このしんどさ。
◆5月11日午後1時:城南市

 暑さと、足の痛みに耐えながら、1日目の昼休憩地点中央公民館に到着した。
到着早々、私たちは地面に座り込んでしまった。昼食の弁当もそこそこに、みんな適当な場所を見つけては仮眠を取った。午後からの行進を考えてのことだ。
約1時間の仮眠の後、城南市の方からこの一帯での沖縄戦の悲惨な状況を聞かせていただいた。このあたりでは、自然にできた洞窟を利用し、に日本軍が沖縄住民を巻き込んで立てこもっていた。日本軍は沖縄の人々を逃亡しないように壕の奥においやり、戦闘がはじまると弾除けとして壕の入り口に立たした。また、捕虜にならないように自殺の強要、傷病者(日本軍兵士も含む)の虐殺も行った。
午後2時から南風原町を目指して行進した。強い陽射しが、じりじりと肌を焼いて行く。行進前はまだ白かった腕が、見る見る赤くなって行く。こまめにお茶を飲んでいるのだが、のどが渇く。止め処なく流れる汗が目に入って痛い。途中で、野戦病院として用いられた壕の近くを通った。地元の人の説明によると、沖縄戦末期にはこの病院でも、多くの傷病者に薬殺・銃殺が行われた。
◆5月11日午後5時:南風原町役場

日ごろの運動不足のためか、17Kmの行進は疲れた。
目的地の南風原町役場に着くと、崩れるように座り込んでしまった。
朝の元気はどこへ行ったのだろうか、みんな会話を交わす気力もなかった。
肌は真っ赤になり、ひりひりと痛んだ。
体全体が鉛のように重く感じられた。
1日目の行進を終え、体を冷ましながら今日の行進で見聞きしたことを思い返した。
沖縄戦では多くの住人が殺害されたが、そのほとんどが敵国であったアメリカ軍によるものでなく、見方の日本軍であった。

62年前の5月、沖縄の人々も日本軍に追い立てられて、私たちの行進コースとは逆に、沖縄南部へ行進していた。
彼らも、私たちと同じように暑さと疲労に苦しんだだろう。
ただ、私たちの行進は終われば家に帰ることができるが、彼らの行進は終わりには絶望しかなかった。
目的地の壕にたどり着いても、日本軍に虐殺されるか自殺を強要されるかしかない。
「生き残る」ための行進でなく、「死ぬ」ための行進。
戦争では住民が否応無く虐殺される。
敵国の軍隊だけでなく、見方であるはずの自国の軍隊によっても虐殺されるのだ。
戦争を指導する人々、また戦争の指揮をとる軍人は盛に大義名分を掲げて戦争をするが、「国民を守る」という大義名分を掲げて、実際に「国民をまもった」戦争はない。
住民を巻き込まなかった戦争など存在しないのだから。

多くの「命」を奪い、勝っても、負けても平和が確実に来る保証のないゲームそれが戦争の本質ではないだろか。


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